2013年4月
今年の桜も終わり、静かな目黒川をぶらぶらり。
先日、お客さんを訪ねて中目黒へ
かなり早めについてしまったのでぶらぶら目黒川を散歩してきました。
さくらも終わって、散った花びらが川のわきに集まってきれいなラインを描いてます。
桜満開の目黒川の写真はよく目にしますが、こういうのあまり見ないですね♬
桜が散って静かな目黒川
私も次に引っ越すときは必ず川のそばというより、川のとなりってくらいの住まいが
いいな~と最近思ってます。
もしこのブログを見ていただいていて、川崎・都内の多摩川沿いでいい物件をご存知の方は
是非ご連絡下さい!できれば、連棟の長屋とか古い木造建物で室内の改装を
借り手にやらせてくれる懐の大きな大家さんの物件などが最高^0^
もう古いし、いまさら貸すつもりもなかったんだけど使ってくれるなら・・・ってもののほうがイイです!
解約明渡しの時は使えるようにしてお返しします。
条件はお話して折り合いのつくところから一歩貸主さんの要望に近いものでOKです!
念のため、連絡先を(本気だな・・・)
080-4654-0399
株式会社すまいる 中本太一
上記どちらでも『知ってるよ!』 『貸してやるよ!』 って方ご連絡お待ちしてます♬
まぁ、そんなこんなで川っていいなぁ ってことで
今はハンドルをひねれば当たり前に水が出てきますけど
水道もひかれていない昔々は川の水を田畑に引き込んで農業用水にしたり
引き込んだ水で水車をまわしてお米を脱穀したり、餅をついたり?
建築も今のように自動車がない時代、山で伐採した木を上流から流して
下流の建築現場に運んだのでしょう。
考えると東京とか大阪とか都市部には必ず大きな川がありますね。
想像するだけで川がなかったら、水がなかったら大変ですね
前よりだいぶ水がよくなってるような
僕をぞうきんみたいに絞ったら抜け殻が30%・・・
川を眺めながら、いろいろ考えていたら、時間を忘れてしまって
お客さんとの待ち合わせ時間に少し遅刻したのでした。
まったく自分のことながら、どうしようもない・・・
ブルーな橋
生田緑地と枡形山の歴史
ええっと、さぼりにさぼってやっとの思いで書くブログ。
かなり時間が経過してしまいましたが、前回は生田緑地とプラネタリウムってことで強行します^ ^
前回メガスターⅢフュージョンのスゴさが少しは伝わったでしょうか?表現力が貧素なので不安ですが・・・
この生田緑地の中には小高い枡形山という山があってその上にお城もあったようなんですね。
鎌倉幕府の時代から各地に割拠する大名家が覇権を争った戦国時代へ・・・古の日本へ意識を飛ばしましょ~!
当時の多摩地区はこんな感じで玉川(多摩川)沿いの小高い丘陵地には数多くのお城があったんですね~?
知らなかったですね~
多摩丘陵のお城
当時幕府は源政権下で鎌倉にありましたから北方の守備にこんなにもお城があったってことなんでしょう
ここ枡形山城を守っていたのは稲毛三郎重成という御家人だったそうで、後に【坂東武士の鏡】といわれた同じく
鎌倉方御家人の畠山重忠は彼の従兄弟にあたるそう。
その後鎌倉政権衰退以降、室町時代後期の1487年関東管領という要職についていた山ノ内上杉家と扇谷上杉家に
争い(長享の乱)が勃発し、山ノ内上杉家側に当時はまだ今川氏親(桶狭間で織田信長に討たれた義元の父ちゃん)に
食わせてもらっていた北条早雲が武蔵国進出のため参戦します。
後に彼は北条氏綱・氏康・氏政・氏直と続く後北条5代の礎を築きます。
そろそろほら貝の音が聞こえてきませんか?えっ!聞こえない・・・
ぶおふぉー!!ぶおふぉー!聞こえましたか?プライドの高いお公家さん山ノ内上杉と扇谷上杉の面子を
かけた立河原の戦いが始まります。この争乱に乗じて、玉川以北への進出を狙う北条早雲が陣を張ったのが
この枡形山だったとか。
枡形山から多摩川、都内を望む
その後も戦略上の要衝だった枡形山城は北条氏の城として時代々に将が詰めていたようですが
可哀想なのは甲斐の武田氏が小田原に向け進軍しているのを 『俺達が防ぐ!』と意気揚々と
この枡形山城で戦の準備を進めていた北条家の武将 横山弘成だったけど
武田氏は『こんな小城どっちでもええわ。。。』と無視して軍を進めたとか・・・(寂)
横山さん拍子抜けしたろうな。と
今日は枡形山とその歴史でしたとさ
枡形山城展望台
では、みなさんhave a good smile!!